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丹沢ジャーナル

NPO法人丹沢自然保護協会「丹沢だより」第26号(1972年1月)掲載
丹沢の箒杉物語り(前編)
故 ハンス・シュトルテ 当時 丹沢自然保護協会副会長 栄光学園副校長
箒杉
昭和30年代後半の箒杉。 写真提供:丹沢資料保存会
 新松田駅前で西丹沢行バスにのって、終点で下車すると、丹沢の最奥の部落「箒杉」である。バス停から約100米をもどると道の右側の石垣の上に巨大な杉が立っている。地図にも記されている「箒杉」である。樹齢は、2000年と推定されている。高さは57m、幹の周囲は、目通りが10m、根廻りが18mの巨木である。丹沢山塊でも最大の杉であり、最年長者でもある。昭和9年(1934)12月26日に天然記念物として指定された。

幾年か前、ある晩秋の日、この箒杉の根に腰を掛けて、ぼんやりと人影のない部落を眺めたとき、この老木が語り始めた。覚えたまま記してみよう。
・・・親から聞いたそうだが、今からおよそ四千年前に人間らしい者が石で造った道具を手にして、熊や鹿を追いながらここをよく通った。自分の目で見るようになったのはそれよりはるかに後だがもはや上代が始まらんとする時代だった。その時、相模の国、特に丹沢山麓の各地が大陸から帰化した高麗人によって開発されるようになった。彼等の高度な文化によって、山奥深くまで開発の曙が運ばれた。異国のことばを聞いて、この箒杉も驚いたらしい。
それから幾百年たって、また違う人種が現われた。狩人でもないし、山の資源を探ってくる「実業家」でもない。山伏であった。なにしろ、奈良時代に丹沢山塊が大山を中心にして、修験の一大道場となり始めた。その時から毎年山伏がここを通り、杉の下に野営した者も多かったそうだ。これらの山伏は谷の奥にそびえている峯々を目指していた。厳しい入山修行のため、道もない、鬱蒼たる原始林に蔽われている急峻な加入道、大室、檜洞丸蛭ヶ岳の沢や尾根を登って行った。人間が現われてきて、また去っていった。時代も奈良時代から平安時代に、それから鎌倉時代になった。
ある日、杉の元がさわがしくなった。人が木を伐って、家を建て始めた。その人たちは今まで見た人たちとどこかが違う。黙々と働いて、なにか深い悲しみを秘めているようだった。あとで解ったのだが、はるか北の奥州の平泉から来たそうだ。名は鰐口伊賀守とその家族と家来だった。源義経をかくまった藤原秀衡の家臣だった。平泉が没落した後でここへ隠れ住むことにした。ずいぶん長い、危険な旅だったのだろう。老杉が枝を広く伸ばして、疲れたこの一族をかくまおうとした。主家は藤原だったので、氏を佐藤と名のったため、部落全部が佐藤姓となり、今日に至っている。
それから三百年ほどたってから、一大事件が起った。部落のだれかが箒を川へ落としてしまった。箒が流されてしまって、下流の中川部落の人がこれを見つけて、川上に人が住んでいることを始めて知った。大変驚いて、小田原の北条氏の山作奉行に報告した。調べてみたところ、部落を発見したわけだ。箒沢の名の所以はここにある。そして早速、年貢を課せられて、あまりありがたくない結果になった。
とはいっても、この部落が今までの天下の大戦乱を知らないで、平和な毎日を送ったはずはない。西丹沢の玄関である山北に河村氏はその根拠地を占めていた。鎌倉幕府に対して、必ずしも屈従していなかった。時として反抗し、挙兵に応じなかったこともあったので、将軍の怒りをかったわけだ。河村氏の本城は河内川、酒匂川、皆瀬川の三河川の断崖の上にあった(現在の山北町共和地区)。その他、西丹沢(当時河村山)山中に神縄、中川、世附、玄倉の各地にも城があって、山岳戦に馴れていない鎌倉軍が近寄れない場所であった。この戦いに当って、鎌倉幕府によって故郷から追い出された箒沢の一族が河村氏の味方になって守護を受けると同時に、援軍したこともあったようだ。とくに南北朝戦乱のとき、河村氏が最後まで、吉野朝に孤忠を尽し続けてきたので、本城であった共和城の没落後、その残党が西丹沢の山中へ逃げ込んで、その一軍が箒沢に籠り、そこから大室山の破風口峠を越えて、甲斐の国へと走り去った。
それからあの戦国時代が始まった。甲斐の武田氏と小田原の北条氏の対戦が丹沢全山を舞台に展開されるようになった。今まで比較的に静かで、平和であった箒沢周辺が急に殺気に満ちてきた。優秀な木材(欅、檜、杉、樫、樅、楓など)、金、水晶の他、熊、鹿、山羊などの毛皮などの宝庫であったこの山地は両国の権力者の欲望を刺激するに充分な価値があった。この暗い、無気味な雰囲気に包まれた時代のことになると、さすがの箒杉の大木の声が途切れになる。昨日は甲斐の軍勢が現われ、今日は小田原の武士がやってきて民家に暴れ込み、敵の味方や謀者を捜したり食物や酒を持ち去ったりして、山へ逃げ遅れた部落民を半殺しにしてしまったことさえあったようだ。一方、敵に切られて、血だらけになって、逃げ込んだ武士を憐れんで、その傷をいたわる部落の人たちの温い心を見たこともあったそうだ。老杉は人間のこの不思議な二面に大変感動されたようだった。
この時代中の最大の出来事は、武田信玄が自らこの箒沢部落を訪れたことだった。信玄は道志渓谷から大室山中に入り、愛犬の先導で大室山と檜洞丸の最低鞍部(現在の犬越路)を越えることに成功した。あの勇敢な無敵の武将信玄が来ると聞いた部落民は山へ逃げるどころか、一目でも見たいと部落外れまで迎えに出てしまったそうだ。信玄は部落民の歓迎に喜んだらしく、杉の大木の下で陣取って、しばらく休んだ。杉の樹齢はその時もはや1500年もあった。信玄はこの杉を見上げて「立派な杉じゃのう!」と感心したそうだ。老杉は400年たった今でもこのことばを誇りにしているようだ。
こうして西丹沢の最奥の部落にも天下の荒波が押し寄せてきたのだ。箒杉の2000年間の永い生涯も決して退屈なものではなかったようだ。それにもかかわらず老杉は今も元気に生きている。(後編に続く)原文のまま記してあります。
  


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